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京都地方裁判所 昭和63年(ワ)2690号 判決 1991年12月05日

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

寺島道子

西村陽子

村上久徳

被告

山元病院こと

山元市範

右訴訟代理人弁護士

小林昭

大戸英樹

主文

一  被告は、原告に対し、金二六一万五一一八円及びこれに対する昭和六三年四月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その二を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、原告勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

但し、被告が金一〇〇万円の担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、九三四万三一九二円及びこれに対する昭和六三年四月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告は、昭和二九年一一月二〇日生まれの女性であり、被告は、京都市中京区堀川通四条上るにおいて山元病院(以下「被告病院」という。)を開設し、産婦人科病院を経営している医師である。

2  準委任契約の締結

原告は、昭和五八年一一月七日被告病院で初診を受け、同年一二月一九日分娩入院の申込みをなし、昭和五九年四月二一日被告病院に入院し、被告との間で、原告が被告病院において分娩するについて、新生児を無事に分娩し、かつ、原告自身も分娩の際の損傷から健全な母体を回復するよう被告が万全の治療と介護を尽くすべきことを内容とする準委任契約を締結した。

3  診療の経過及び結果の発生

(一) 原告は、昭和五九年四月二一日午前六時頃、被告病院に入院し、同日午後六時三〇分第一子を、同三六分第二子をそれぞれ出産した。

出産の際、担当の藤井正博医師(以下「藤井医師」という。)は、原告の会陰中央部を正中切開の方法により切開し、第一子について吸引分娩を、第二子(逆子)について骨盤位娩出の方法を採った。

(二) 原告は、出産後五日目に、被告病院の医師による診察を受け、異常はない旨の診断を受けた。

しかし、原告は、入院中はもとより退院後約半年間、排便の際、常に激痛を感じ、排便するのが苦しく、下剤を服用すると下痢になり、便所まで我慢できずに大便を漏らすという状態であった。

(三) 原告の右排便時の痛みは、約半年後、徐々に薄れてきたが、その後もなお大便が漏れる状態が継続した。

(四) 原告は、昭和六二年六月二五日、京都市上京区浄福寺今出川下る所在の渡邊医院(渡邊元治医師)で診察を受けたところ、大便が漏れるのは出産の際肛門括約筋が断裂したためであると説明を受けた。

(五) 更に、原告は、同年八月二二日、京都市上京区釜座通丸太町上る所在の京都第二赤十字病院で診察を受けた結果、肛門括約筋不全と診断され、同年八月二七日、手術を受け、右症状は治癒した。

4  債務不履行責任

被告及び藤井医師(以下「被告ら」という。)の原告に対する処置については、以下に記載するような注意義務違反がある。

(一) 会陰切開にあたり肛門括約筋を切断しない注意義務違反

被告が雇用し、その履行補助者である藤井医師は、原告の分娩時会陰切開を行う際、肛門括約筋を損傷することのないように、切開部位、範囲、方法について細心の注意を払う義務があるのに、これを怠り、会陰切開に際して、原告の肛門括約筋まで誤って切開した注意義務違反がある。

(二) 縫合方法における注意義務違反

藤井医師は、原告の分娩後はその肛門括約筋断裂の有無の確認を十分すべき注意義務があるのに、これを怠り、原告の肛門括約筋断裂の存在を看過したため、肛門括約筋断裂に対する適切な処置を怠り、放置した注意義務違反がある。

(三) 経過観察義務違反

被告らは、会陰切開術の中でも、特に正中切開術を行った場合、肛門括約筋の断裂が生じる危険性が高いのであるから、原告の手術後、慎重な経過観察をなすべき注意義務があるのに、これを怠り、原告が再三にわたって肛門痛や肛門からの出血等の症状を訴え、医師による診察を求めていたにもかかわらず、何ら適切な検査、観察を行わず、適切な処置も施すことなく、漫然と放置したまま原告を退院させた注意義務違反がある。

(四) 説明義務違反

被告は、原告が再三にわたって肛門の激痛を訴えていたのであるから、このような場合、原告に対し、肛門括約筋断裂の可能性のあること、一定期間経過することにより創傷が固定化し、その後に再検査、再手術をする方法があることを説明すべき義務があるのに、これを怠り、何ら説明をしなかった注意義務違反がある。

5  不法行為責任(原告は、債務不履行責任と不法行為責任と選択的に主張する。)

被告には、前記4(三)及び(四)の、被告の事業たる医療行為の執行として本件会陰切開を行った藤井医師には、前記4(一)ないし(三)の過失があるから、被告は、原告に対し、民法七〇九条または七一五条一項により原告が被った後記損害を賠償する義務がある。

6  損害

合計九八四万三一九二円

(一) 治療費 八万五一八〇円

内訳

京都大学医学部附属病院

三三〇〇円

京都第二赤十字病院

八万一八八〇円

(二) 通院交通費(通院七日間)

一万八四〇〇円

(三) 入院雑費(入院一二日間)

一万五六〇〇円

(計算式)一三〇〇円×一二

=一万五六〇〇円

(四) 休業損害(入院一二日間)

八万七二三八円

但し、産業計、企業規模計、学歴計三二歳の女子労働者の賃金センサスを基準とする。

(計算式)二六五万三五〇〇円×一二

÷三六五=八万七二三八円

(五) 後遺傷害による逸失利益

三一〇万六七七五円

原告は、前記肛門括約筋断裂の結果、肛門括約筋機能不全の後遺症を負ったのであるが、これは、生殖器に著しい障害を残すものであり、自動車損害賠償保障法施行令二条別表第九級一六号に該当するものであって、被告病院において会陰切開術を施されてから京都第二赤十字病院で手術を受け治癒するまでの間(合計一二二一日間)主婦として満足に稼働することができなかった。

従って、その逸失利益は、次のとおり三一〇万六七七五円となる。

(計算式)二六五万三五〇〇円×三五

÷一〇〇×一二二一÷三六五

=三一〇万六七七五円

(六) 慰謝料

合計五二二万九九九九円

(1) 入通院慰謝料

二二万九九九九円

但し、入院一二日間、通院七日間。

(2) 約三年間の精神的・肉体的苦痛に対する慰謝料

五〇〇万円

原告は、肛門括約筋断裂により約三年の間言うに言われぬ苦しみを味わってきたのであり、その肉体的・精神的苦痛に対する慰謝料は五〇〇万円を下るものではない。

(七) 被告病院における分娩及び入院費用相当額

五〇万円

原告は、被告に対し、分娩及び入院費用として五〇万円以上を支払ったが、被告の前記注意義務違反により、分娩の際に母体に損傷を負い、母体の健全な回復を得ることができなかったのであるから、少なくとも右支払額に相当する五〇万円の損害を被った。

(八) 弁護士費用 八〇万円

原告は、以上の損害を被告らの行為により被ったところ、被告は右損害を任意に支払わないので、原告訴訟代理人に対し、本件訴訟の提起及びその遂行を委任したが、これに対する報酬として右損害額の一割に相当する八〇万円の支払を約した。

7  原告は、被告に対し、昭和六三年四月八日到達の書面により右損害(但し、(七)及び(八)を除く。)の支払を請求した。

8  よって、原告は、被告に対し、債務不履行または不法行為に基づき、以上の損害九八四万三一九二円のうち九三四万三一九二円及びこれに対する催告の日の翌日である昭和六三年四月九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実のうち、原告と被告が診療契約を締結したことは認めるが、その内容は否認する。

3(一)  同3(一)の事実は認める。

(二)  同3(二)の事実のうち、原告が、出産後五日目に医師による診察を受け、異常はない旨の診断を受けたことは認め、その余の事実は知らない。

(三)  同3(三)ないし(五)の事実は知らない。

4(一)  同4の冒頭部分、(一)、(二)は否認する。

(二)  同4(三)、(四)の事実のうち、原告が肛門痛を訴えたことは認め、その余は否認する。

5  同5の事実のうち、被告らに過失がある点を否認し、その余は争う。

6  同6の事実は否認する。

7  同7の事実は認める。

三  被告の主張及び抗弁

1  主張

(一) 診療契約の内容について

原告は、請求原因2項において、被告との間で、新生児を無事に分娩し、かつ、原告自身も分娩の際の損傷から健全な母体を回復するよう被告が万全の治療と介護を尽くすべきことを内容とする準委任契約を締結した旨主張するが、被告は、原告との間で、医師として、妊婦が胎児を出産することを介護し、無事に出産させることを内容とする診療契約を締結したものである。

(二) 縫合方法における注意義務違反について

藤井医師は、原告の会陰部の正中切開法を施した後その縫合前に、原告の肛門に指を挿入して診察し、肛門括約筋断裂の疑いを認めなかったので、皮下組織をカットグートで縫合し、皮膚表面をクレンメで留めたのであり、その診察方法及び縫合は適切であって、肛門括約筋断裂を発見できなくとも何ら注意義務違反はない。

(三) 経過観察義務違反について

(1) 被告らは、原告の分娩後三日目、五日目、九日目、一〇日目、一二日目、一三日目に原告を診察しているが、原告は、その間便漏れなどの訴えをしたことはなく、また、大便漏れ及びガス漏れなども認められなかったもので、肛門括約筋の不全を疑うべき兆候はなかった。

(2) 被告らは、昭和五九年四月三〇日(出産後九日目)原告を診察した際、会陰創瘢痕部に硬直と圧痛を認めたが、縫合のための硬結と考えて処置した。その後の経過観察によっても、肛門括約筋断裂を疑わせる所見は存しなかった。なお一般に、肛門痛及び肛門出血は、分娩後しばしばみられ、痔疾及び裂傷部の小さな血腫によっても起こり得るのであり、これが肛門括約筋断裂を疑わせるものとは考えにくい。

(3) 原告は、被告らに対し、その後、入院中及び退院後の外来通院中に、肛門括約筋の断裂を示唆するような大便漏れの症状を一度も訴えたことはなかった。

(4) 従って、被告らが原告の肛門括約筋断裂を発見しなかったことについて、被告らには何ら注意義務違反はない。

2  抗弁(不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効)

(一) 仮に、被告が原告に対し不法行為に基づく損害賠償義務があるとしても、当該不法行為の時期は、昭和五九年五月四日の原告の退院時までの間のことであるところ、原告は被告に対し昭和六三年四月八日到達の書面により初めて右損害賠償の請求をなしたのであるから、原告は、不法行為後三年を経過した後に損害賠償を請求したものである。

(二) 被告は、原告に対し、平成三年七月二五日の本件口頭弁論期日において右消滅時効を援用する旨の意思表示をなした。

四  被告の主張及び抗弁に対する認否

1  被告の主張(一)のうち、原告と被告が診療契約を締結したことは認め、その内容は否認する。

2  同(二)の事実は否認する。

3  同(三)の事実のうち、原告が被告に対し大便漏れを一度も訴えなかったことは認め、その余は否認する。

4  抗弁(一)の事実のうち、原告が被告に対し昭和六三年四月八日到達の書面により初めて右損害賠償の請求をなしたことは認め、その余の事実は否認する。

原告が出産による肛門括約筋の断裂を知ったのは、昭和六二年六月二五日渡邊医院で診察を受けた時が初めてであるから、原告が損害及び加害者を知ったときから右損害賠償請求時までに三年を経過していない。

第三  証拠<省略>

理由

一当事者

請求原因1項の事実は当事者間に争いがない。

二準委任契約の締結

1  原告が被告との間で原告の出産に関し診療契約を締結したことは当事者間に争いがないところ、右争いのない事実、<書証番号略>、証人藤井正博の証言、原告及び被告各本人尋問の結果によれば、原告は、京都府立医科大学付属病院産婦人科医局助産婦芝田香代子の紹介により、被告病院において昭和五八年一一月七日初診を受け、同年一一月二八日、再診を受け、同年一二月一九日分娩入院の申込みをなし、同年四月二一日分娩のため被告病院に入院したこと、右入院は、原告が被告病院において分娩するについて、新生児を無事に分娩し、かつ、原告も健全な母体を維持することができるよう被告が万全の治療及び介護を尽くすことを目的としたものであることが認められ、他に右認定を覆するに足りる証拠はない。

そうすると、被告は、遅くとも昭和五九年四月二一日、原告との間で、原告が無事新生児を分娩し、原告も健全な母体を維持できるよう万全の治療及び介護を尽くすことを内容とする治療契約を締結したものと認められる。

2  被告は、医師として、妊婦が胎児を出産することを介護し、無事に出産させることを内容とする診療契約を締結したものである旨主張するが、右認定事実に照らすと、これを採用することができない。

従って、被告の右主張は理由がない。

三診察の経過及び結果の発生

1  原告は、昭和五九年四月二一日午前六時頃、被告病院に入院し、同日午後六時三〇分第一子を、同三六分第二子をそれぞれ出産したこと、藤井医師は、その際、原告の会陰中央部を正中切開の方法により切開し、第一子について吸引分娩を、第二子(逆子)について骨盤位娩出の方法を採ったこと、原告は、出産後五日目に医師による診察を受け、異常はない旨の診断を受けたことは当事者間に争いがない。

2  右争いのない事実、<書証番号略>、証人藤井正博及び同泉浩の各証言、原告及び被告各本人尋問の結果を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  藤井医師は、原告の出産に際し、原告が初産であるため、胎児の産道通過を容易にし、また会陰の自然裂傷の発生を回避することを目的として、正中切開の方法により会陰切開術を施したのであるが、肛門括約筋の損傷を避けるために、肛門側に手をあてて、会陰部のみを肛門方向に向かってクーパー(先の丸い手術用はさみ)で一センチメートル強程度切り、さらに第一子出産にあたり、吸引分娩の方法を、第二子出産にあたり、逆子だったので、骨盤位搬出の方法を採った。

藤井医師は、会陰部縫合時、指診及び触診により、創部の範囲を確かめ、肛門部近くまで自然に裂傷ができていたが、肛門部には損傷を認めなかったので、原告の会陰の裂傷部の筋層とその上の皮下組織の部分をカットグート(自然に溶ける糸)で修復し、最終的に会陰の表皮部分をクレンメ(創部を固定するクリップのようなもの)で固定した。

(二)(1)  被告は、昭和五九年四月二三日、原告の血液検査及び感染検査を行い、貧血のないこと、検査値が入院時とほとんど変わっていないことを確認した。

(2) 被告は、同年四月二四日、右クレンメを除去し、消毒をしたが、その際の診断では、異常はなかった。

(3) 藤井医師は、同年四月二五日、原告の子宮の収縮状態や悪露の状況等を診察した。

なお、被告は、同日、原告が便秘していたので、原告に対し、排便を促進するためテレミン(坐薬)を投与した。原告は、この坐薬を使用した結果、肛門部に鋭い痛みを感じたが、排便はなかった。

(4) 藤井医師は、同年四月二六日、原告を診察し、会陰創部を押さえると、原告が圧痛を訴えたので、創部の消毒及び抗生物質の入った軟膏の塗布等の処置を行うとともに、分娩後の検査の指示等を行った。

原告は、同日、肛門痛及び肛門からの出血があったので、その旨を被告病院の看護婦に訴えた。

(5) 藤井医師は、同年四月二七日、原告の腹部の診察をし、投薬の指示を行った。

原告は、同日、肛門痛があり、前夜肛門から出血があったので、その旨を被告病院の看護婦に訴えた。

(6) 原告は、同年四月二八日会陰部痛が、同年四月二九日肛門痛があったので、その旨を被告病院の看護婦に訴えた。

(7) 被告病院の安田医師は、同年四月三〇日夜、原告を診察し、肛門痛・肛門括約筋痛があり、肛門付近が硬く、痛みがある旨及び会陰創部にびらんが認められる旨診療録に記載した。

(8) 被告は、同年五月一日、前夜の診療録の記載を見たうえ原告を診察し、同人の会陰創部にびらんを認めたので、その表皮の部分を寄せて、クレンメ二本で留めた。

(9) 被告は、同年五月四日、原告を診察し、前記創部に装着したクレンメを除去し、退院させたが、その際、原告の希望により、下剤五日分を渡した。

(三)  原告は、退院後約一か月間、排便の際肛門部に鋭い痛みを感じ、その後も約半年間は、便秘で苦しむとともに、排便の際肛門痛を感じていたが、右肛門痛は、その後は薄らいできたものの、下痢状態の際には大便が漏れるという状態が続いており、肛門括約筋の受傷時から完治時までの間、ガス漏れや大便漏れ(月二回ないし三回程度)のため買物や散歩のための外出を控えざるを得なかった(下痢気味以外の時は大便漏れはなかった。)。

しかし、原告は、同年五月七日、二一日、二八日及び同年六月二日、被告病院で検診を受けたが、右のような便が漏れる状態については被告に告げなかった。

(四)  原告は、その後も大便漏れやガス漏れが続いたので、昭和六二年六月二四日、京都市上京区浄福寺今出川下る所在の渡邊医院で診察を受けたところ、肛門の痛みや大便が漏れる原因は、出産の際肛門括約筋が切れたことが原因であると説明を受け、さらに同年六月二六日、七月一日及び三日、京都市内所在の京都大学医学部附属病院、同年八月二二日、京都市上京区釜座通丸太町上る所在の京都第二赤十字病院で診察を受けた。

京都第二赤十字病院の泉浩医師(以下「泉医師」という。)は、原告の肛門括約筋が零時から四時の方向(零時は膣方向)にかけて欠損し、欠損部分は奥行き四ないし五センチメートルに及び、創傷が瘢痕化し、内外肛門括約筋の部分断裂があると診断した。

そこで、原告は、同年八月二五日、京都第二赤十字病院に入院し、同年八月二七日、泉医師らの執刀により、肛門括約筋断裂について、肛門括約筋瘢痕を切除し、内外括約筋断裂部分の縫合する手術を受け、治癒した。

四債務不履行責任について

1  契約の締結及び結果の発生

原告は前記(二)認定のとおり、被告との間で診療契約を締結したが、前記(三2(四))認定のとおり、肛門括約筋不全の傷害を受けた。

2  結果発生時期

<書証番号略>、証人泉浩及び同村上旭の各証言並びに原告本人尋問の結果によれば、肛門括約筋断裂の原因として、一般に、(一)以前の痔瘻の手術、(二)暴力的に肛門が裂けた場合、(三)会陰切開の場合が考えられるところ、原告は、これまで痔瘻の手術を受けたことはなく、また、暴行を受けたこともないこと、被告病院での分娩後から原告の大便漏れが始まったことの他、原告は本件分娩後昭和六二年六月二五日渡邊医院で肛門括約筋断裂と診断されるまでの間分娩をしたことがないことが認められるから、原告の肛門括約筋断裂の原因は、原告の被告病院入院中に生じたものというべきである。

3  結果発生の原因

(一)  会陰切開にあたり肛門括約筋を切断しない注意義務の違反について

証人村上旭及び同藤井正博の各証言並びに被告本人尋問の結果によれば、会陰切開の際、肛門括約筋を人為的に傷つけないことは医師の鉄則であり、肛門括約筋が自然に断裂することはあるが、医師が肛門括約筋まで誤って切開してしまうことは通常あり得ないことであることが認められるうえ、前記(三2(一))認定のとおり、藤井医師は、肛門括約筋の損傷を避けるために、肛門側に手をあてて、会陰部のみを肛門方向に向かってクーパー(先の丸いはさみ)で一センチメートル強程度切ったのである。

そうすると、藤井医師が原告の会陰を正中切開する際、誤って肛門括約筋まで切開したことを認めることはできない。

<書証番号略>及び原告本人尋問の結果中の右認定に反する各部分は信用できないし、他に原告主張の注意義務違反(請求原因4(一))を認めるに足りる証拠はない。

従って、原告の右主張は理由がない。

(二)  縫合方法における注意義務違反について

前記(三2(一))認定事実及び証人藤井正博の証言によれば、次の事実が認められる。

(1) 藤井医師は、原告が出産し胎盤の娩出もあった後、原告の創部を視診により、その程度、範囲及び深さを調べ、同時に触診により、止血をしながら手(ゴム製の手袋を装着)で傷口の表面から深さまでを調べたところ、原告の会陰切開部分の先端からほとんど垂直方向に肛門近くまで自然裂傷が生じていることが判明したが、肛門括約筋そのものには損傷が見当たらなかった。

(2) そこで、藤井医師は、原告の会陰裂傷の程度を二度と診断して、会陰の裂傷部の筋層とその上の皮下組織の部分をカットグートで修復し、最終的に会陰の表皮部分をクレンメで固定し、その縫合の直後に、直腸内触診をして、縫合が的確にできたことを確認した。

以上の事実が認められ、右事実の他、<書証番号略>及び証人村上旭の証言に照らすと、藤井医師の右診察・縫合方法が不適切であるということはできない。

そうすると、藤井医師は、診察・縫合にあたり、医師としての注意義務を尽くしており、他に原告主張の注意義務違反(請求原因4(二))を認めるに足りる証拠はない。

従って、原告の右主張は理由がない。

(三)  経過観察義務違反について

(1)  前記(四2、3(一)及び(二))の認定事実並びに<書証番号略>、証人泉浩及び同村上旭の各証言によれば、会陰創部を縫合したあと感染により肛門括約筋に離断を生じることが十分に予測されること、本件の場合、原告の被告病院における分娩の他に肛門括約筋断裂の原因は考えられないこと、昭和五九年四月三〇日安田医師の診察の結果によれば、原告の肛門付近は、硬く、痛みが存するとされており、これは、感染の疑いが十分に考えられることが認められる。

右認定事実、前記(三2、四2)認定の診療の経過及び結果発生時期に照らすと、原告に生じた肛門括約筋断裂は、分娩後の創部の感染によるものであると認めるのが相当であり、原告の肛門括約筋が離断した時期は、右入院期間中における創部の感染時(同年四月三〇日頃)から相当期間経過後であるというべきである。

(2)  前記(三2(二))認定の事実によれば、被告病院の安田医師は、同年四月三〇日夜、原告を診察し、肛門痛・肛門括約筋痛があり、肛門付近が硬く、痛みがある旨及び会陰創部にびらんが認められる旨診療録に記載しており、被告は、同年五月一日、前夜の診療録の記載を見たうえ原告を診察し、同人の会陰創部にびらんを認めたので、その表皮の部分を寄せて、クレンメ二本で留めただけで、他に原告の創部感染検査について何ら適切な処置をしていないことが認められる。

右認定事実に照らすと、被告は、遅くとも右五月一日の原告診察時には、注意深く観察すれば、原告の創部に生じた感染による肛門括約筋の離断発生の可能性を知りうる状況にあったのに、その兆候を見過ごし、深部までの感染の可能性を全く考慮せず、その場合に必要とされる傷口を切り開いて縫合する措置をとらず、単に膣の表皮をクレンメで止めただけで、放置していたのであるから、被告には、この点に注意義務違反があるというべきである。

(3) なお、被告は、原告の分娩後入院期間中の診療観察の際、何ら肛門括約筋断裂を疑わせるような所見は存しなかった旨主張し、被告本人尋問の結果中には右主張に沿う部分が存するが、右部分は右認定事実に照らし信用することはできない。

従って、被告の右主張は理由がない。

(4) また、被告は、原告は被告らに対し入院中及び退院後外来通院中肛門括約筋断裂を示唆するような大便漏れの症状を一度も訴えなかったと主張し、<書証番号略>及び原告本人尋問の結果によれば、右事実を認めることができるが、前記認定のとおり、安田医師は、昭和五九年四月三〇日夜、原告を診察し、肛門痛・肛門括約筋痛があり、肛門付近が硬く、痛みがある旨及び会陰創部にびらんが認められる旨診療録に記載しており、被告が同年五月一日の原告診察時にその会陰創部を注意深く観察すれば、創部に生じた感染による肛門括約筋の離断発生の可能性を知りうる状況にあったのである。

従って、被告の右主張は理由がない。

4 そうすると、被告は原告に対し、経過観察義務についての債務不履行により原告が被った後記損害を賠償する義務がある。

五損害

1  治療費 八万五一八〇円

前記三2(四)認定の事実、<書証番号略>によれば、原告は、肛門括約筋不全の治療費として、京都大学医学部附属病院に対し昭和六二年六月二六日から同年七月三日までの間に三三〇〇円、京都第二赤十字病院に対し同年八月二二日から同年九月一九日までの間に八万一八八〇円をそれぞれ支払ったことが認められる。

2  通院交通費 〇円

<書証番号略>によれば、原告は、京都大学医学部附属病院及び京都第二赤十字病院に合計七日間通院したことが認められるが、原告が右通院に使用した交通手段及びその費用については、これを認めるに足りる証拠はない。

3  入院雑費 一万二〇〇〇円

<書証番号略>によれば、原告が京都第二赤十字病院に入院していたのは、昭和六二年八月二五日から同年九月五日までの一二日間であると認められるところ、その間の雑費として一日あたり一〇〇〇円が相当であるから、入院雑費は一万二〇〇〇円が相当であると認められる。

(計算式)一〇〇〇円×一二

=一万二〇〇〇円

4  休業損害 八万七二三八円

原告本人尋問の結果によれば、原告は、本件分娩当時及びその後も専業主婦として家事労働に従事していたことが認められる。

そして、原告は、前記認定のとおり、京都第二赤十字病院に一二日間入院したのであるから、その間主婦として家事に従事することができず、その間、少なくとも同年代の同性の者の平均収入と同程度の損害を被ったものと認めるのが相当である。

原告が昭和二九年一一月二〇日生まれ(右入院当時三二歳)の女性であることは当事者間に争いがないから、休業損害算定の基礎とすべき原告の年収は、昭和六二年の賃金センサスに基づく三〇歳以上三四歳以下の女子労働者の平均賃金(産業計、企業規模計、学歴計)二六五万三五〇〇円とするのが相当である。

従って、原告の休業損害は、次のとおり八万七二三八円となる。

(計算式)二六五万三五〇〇円×一二

÷三六五=八万七二三八円

5  後遺傷害による逸失利益

五三万〇七〇〇円

前記認定のとおり、原告は、昭和二九年一一月二〇日生まれであり、本件分娩当時及びその後も専業主婦として家事労働に従事していたものであるところ、被告病院退院後約一か月間、排便の際肛門部に鋭い痛みを感じ、その後も約半年間は、便秘で苦しむとともに、排便の際肛門痛を感じていたが、右肛門痛は、その後は薄らいできたものの、下痢状態の際には大便が漏れるという状況が続いており、肛門括約筋の受傷時から完治時までの間、ガス漏れや大便漏れ(月二回ないし三回程度)のため買物や散歩のための外出を控えざるを得なかった(下痢気味以外の時は大便漏れはなかった。)のであるから、これらの事実によれば、原告は、肛門括約筋断裂により労働能力の一部を喪失していることが認められ、原告の家事労働の内容、傷害の部位・程度に鑑みれば、右労働能力喪失割合を二〇パーセントと認めるのが相当である。

ところで、原告は、前記認定のとおり、被告病院に入院中及び通院時に被告又は他の医師に大便漏れの症状を告げたことがなく、昭和六二年六月渡邊医院において診察を受けるまで大便漏れの症状について他の病院で診察を受けなかったため、後遺傷害に約三年四か月も悩むことになったものというべきであり、右事実に前記認定の大便漏れの状況等を勘案すると、右後遺傷害による逸失利益については、受傷後一年間の限度で本件債務不履行と相当因果関係を有すると認めるのが相当である。

そこで、前記年収を基礎として計算すると、後遺傷害による逸失利益は、五三万〇七〇〇円となる。

(計算式)265万3500円×0

.2=53万0700円

6  慰謝料 一六〇万円

前記認定の事実、<書証番号略>及び原告本人尋問の結果によれば、原告は、被告の債務不履行に基づく肛門括約筋断裂のため、入院一二日間、通院七日間を余儀なくされたうえ、約三年四か月にわたり精神的・肉体的苦痛を被ったことが認められるところ、他方、原告は、前記認定のとおり、被告病院に入院中及び通院時に被告又は他の医師に大便漏れの症状を告げたことがなく、昭和六二年六月渡邊医院において診察を受けるまで大便漏れの症状について他の病院でも診察を受けなかった(原告において、早期に被告病院又は他の病院で大便漏れを告げていれば、その病院で適切な処置が採られ、約三年四か月も苦しむこともなかった。)のであるから、これらの事実の他、前記認定の傷害の部位・程度等本件に表れた諸般の事情を勘案すると、原告に対する慰謝料は、一六〇万円が相当であると認められる。

7  被告病院における分娩・入院費

〇円

原・被告間の診療契約本来の目的である分娩については、子供の出産によりその目的を達しているから、原告主張の分娩・入院費の支出をもって損害であると認めることはできない。

8  弁護士費用 三〇万円

前記認定の事実、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告が被告の債務不履行により以上の損害合計二三一万五一一八円を被ったこと、被告が原告に対しこれを任意に支払わなかったため、原告は原告訴訟代理人に対し本件訴訟の提起及びその遂行を委任したことが認められるところ、本件訴訟の内容、経過、難易度、損害額等諸般の事情を斟酌すると、弁護士費用は、三〇万円と認めるのが相当である。

9  損害額合計

二六一万五一一八円

六よって、原告の本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく、右損害二六一万五一一八円及びこれに対する催告の日(原告が被告に対し昭和六三年四月八日到達の書面により本件肛門括約筋断裂による損害の支払を催告したことは当事者間に争いがない。)の翌日である昭和六三年四月九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるから認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本分を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官見満正治 裁判官堀内照美 裁判官住友俊美)

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